こころ

こころ




 暑い夏の日であった。私と先生は海水浴に出かけた。私と先生は列車の座席に座り、がたごと揺られていた。先生は読書に耽っている様子だった。麦わら帽子がちょうど影になっていて、一体なんの本を読んでいるのかはわからなかった。私は窓から湾を見つめていた、西洋のコックがかぶる帽子のような雲が、もくもくと流れていった。私は駅の売店で買った水を少し口に含んで、口蓋と喉を洗った。


 私と先生はつい先日、立ち飲み屋で出会ったばかりであった。文学論を交わしているうちに、いつしか私は彼を先生と呼ぶようになっていた。先生はどことなく陰があり、いつも仔細ありげな面持ちをしていた。どこかの大学の先生だと、私は勝手を決め込むことにした。そんな夜が何度かあり、たまには海水浴でもして気分を晴らそう、という事になった。


 列車に揺られているうちに、いつしか私は眠ってしまっていた。終着駅について、先生に肩を揺すられ、ようやく夢から覚めた。奇妙な夢を見て、ひどく気分が悪かった。駅の改札を抜けると、海岸が遠くに見えた。先生は一言も喋らずに、歩き出した。私は先生の影を追った。私の額からはぼたぼた汗が頬をつたって、髪はひどく濡れた。夏の海岸と蝉の鳴き声のせいか、私の意識は少し朦朧としていた。蝉の抜け殻を踏んだ感触だけが、私の意識をわずかながら保たせた。露店やパラソルが少し見えてきたあたりで、私は先生に問うた。


「先生、普段なれない事をするものではないですね。さっそく疲れてしまいました。先生は汗ひとつかいていらっしゃらないですね。早く泳ぎにまいりましょう。もう、暑くてやっていられないです。」
「暑いことはいいことなんですよ。生きている実感というのを感じます。汗をかかないのは麦わら帽子をかぶっているせいですよ。」


 私と先生は洋襦袢を脱いで、海水用の下着にはきかえた。先生の身体は痩せており、背の高さも相まって、とても美しかった。私は少し気恥ずかしくなってしまい、たまらず砂浜の砂利を見つめた。周りに人はあまりいなかった。私と先生、あとは学生と思しき集団が数人程度。松の木が電信柱のように等間隔に並んでいた。私は心を躍らせながら海へと飛びこんだ。海水の冷たい感覚と独特の浮遊感が私の身体をつらぬいた。はたと浜辺を見ると、先生は少し笑みを浮かべながら浜辺に座り、私を見つめているようだった。なぜ海へと足を運んだのに、先生は海へ飛び込まないのだろうか。私は不思議に思い、浜辺へと戻り、先生にその事を告げた。


「先生、折角ここまで足を運んだのに、海に飛び込まないのですか。」
「私も行きますよ、気兼ねなく海を満喫なさい。折角なのですから。」
「そのような事を仰らないで、一緒に飛び込みましょう。ぷかぷかと海月のような心持ちになれて、気持が晴れますよ。」
「ええ、そうですね。では私も参ります。浮輪を借りてまいりますから、少し待っていてください。私は泳ぎが下手でしてね。」
「そうなのですか、わかりました。それでは先に行っていますね。」


 先生は露店で借りてきた浮輪を腰に着けて、ようやく海へと足を踏み入れた。先生の端正な顔立ちに浮輪が、私には少し滑稽に思えて、破顔してしまった。ふたりでぷかぷかと海に浮かんでいた。松の木と浜辺が遠くに見えた。波の音がこぷこぷと耳元で鳴っていた。とても穏やかな波だった。


「先生、やはり海はいいですね。雄大な心持ちになれます。厚い積乱雲が松の木に影を作って、風情がありますね。」
「本音を言うと、私はあまり海が好きではないのです。泳ぎが下手なのもありますが、どうも恐くてね。」
「海が恐いのですか。なにかそういった逸話でもあるのでしょうか。是非、教えてください。」
「いえ、特にそういった逸話などはないのですよ。無理心中などといった事を思い起こさせましたね。すみません。」
「いえいえ、滅相もないです。それで、どういった理屈で海が苦手なのでありますか。」
「海は曖昧だと思いませんか。まるで人間のこころのように曖昧で、ひどく恐いのです。あなたはそうは思いませんか。」
「そのような事を思った事は一度もありませんでした。成程、言われてみれば確かに、海は深いですし、形をなかなか留めませんね。」
「いえ、そういう意味で言ったのではないのですよ。私は曖昧な事象が恐いのです。海に限らず、曖昧な事が苦手でしてね。」
「海は曖昧なのですか。これほどわかりやすい、雄大なものはないと思っていました。」
「ええ、昼間の海は私も好きですよ。ただ、夜の海が恐くてね。まるで重油のようで。一度入ったらもう二度と上がれないような気がしましてね。」


 私は先生に一体なにを言えばいいのか、皆目わからなくなって、黙る事にした。先生はずっと空を見つめてるようだった。なにを見つめているのか、私には全くわからなかった。太陽がぎらぎらと海を照らして、蝉の声が遠くに鳴っていた。先生はいつものあの陰のある表情を浮かべていた。


 私と先生は陸に上がり、髪を手ぬぐいで拭き、じっと浜辺に座っていた。気がつけばもう陽は落ちかけていた。先生は麦わら帽を深くかぶっていて、表情を読み取ることは困難であった。私と先生はじっと海を眺めていた。ただ、じっと海を眺めていた。