一夜

一夜



こんな夢を見た。


 頑是無い子や、買ってきなさいな、と女将は太一郎に言った。油が切れていた為に、灯りが店になかった。太一郎は象の箱のマッチを擦りながら、町まで一人向かうことにした。一本、二本、三本、四本、と擦ると、たちまち灯りがぽうぽうと、立ち昇っては消え、立ち昇っては消えを繰り返した。駅に着くためには峠をいくつか越えなければならなかった。月が雲に隠れていた為、あたりはまっ暗で、太一郎はマッチを擦り続けなければ路がわからなかった。暗い路を太一郎は一人で歩いて行った。太一郎はマッチを擦る感覚が好きだった為、あまり苦にはしなかった。


「瞽者の気分とは、このようなものなのだろうか。」


 太一郎はマッチが切れる事を、心のどこかで思っていた。こんな夜にはきっとなにか、胸が躍るような出来事が起こるはずだと、ひそかに期待していた。マッチを一本擦る、ぽう。マッチをまた一本擦る、ぽう。そしてついにマッチ箱は空になった。暗い路と松林らしいなにか、それと蛭のような、まっ黒い何かがそこかしこに、ずるずると這っている、そのような感覚が太一郎には感じられた。太一郎はそれを不思議と恐怖には感じなかった。なまるい夜風が汗を乾かし、むしろ爽やかな心持ちになっていた。


「たれか、そこにいるのか。」


 太一郎はどこか昂揚した口調で林の向こう側にむかって叫んだ。閑散とした林の向こう側で、濡れた綿のような闇が太一郎の声を吸い取った。


「たれか、でてまいれ。」


 今一度、太一郎は叫んだ。しかし、様相はいっこうに変わる気配は見当たらなかった。太一郎は心の底から落胆した。面長の顔をくしゃっと丸めて、目をこらしながら太一郎は路を進んだ。はたと見上げると、月が雲間から顔を出した。暗い路はとたんに明るくなった。太一郎の落胆の気持ちはさらにふくれ上がった。太一郎はたまらず傍の石を思わず蹴った。


「ハトバスにかじりつくのだな。げふ。」


 林の奥から面を被った白無垢の女が突然あらわれた。太一郎は驚いて、マッチの空箱を女にさしだした。なぜ、さしだしたのか、太一郎すらもわからなかった。


「空箱のなかにこの折鶴を入れておこうか、のう。」


 よくわからなかったが、太一郎はこれはなにかのからくりだと、心に決めて、素直に受け取った。風がつよく松林を揺らした。白無垢の女の長い髪はいっこうになびかなかった。それが太一郎には不思議に思われた。


「油が欲しいのです、油をくださいませ。」
「しやうのない子だ、おぶってやろう。げふ。」


 白無垢の女は太一郎をおぶって、路を歩きだした。なにやら見知らぬ西洋風の看板がいくつも太一郎には見えた。これはなにかのからくりだな、この白無垢の女もからくりの一種か、はたまた女将の仕業だな、と太一郎は決め込んだ。ずんずん進んで行くと、なにやら怪しい料亭のような家屋が見えてきた。西洋文字で書いてあるので、どのような営みをしているか、太一郎には当たりがつかなかった。


「げふ。油は売るか。げふ。油は重いぞえ。」
「はい、油は重たいですが、私にはなんとしても必要なのです。」
「この店に油は置いてある。この縄を持っていくか。げふ。」
「この縄を渡せば、油は頂けるのですね、わかりました。」


 太一郎は白無垢の女の背中を降りて、一目散に料亭に向かった。はて、この峠に料亭などあったであろうか、太一郎は怪訝に思いながらも、縄を片手に料亭の戸を叩いた。


「おねがいします。油をわけてください。」


 沈黙がしばらく続いたのち、西洋風の帽子をかぶった男が戸から出てきた。蛇のような目をした男であった。


「君、油が欲しいとね。切符はあるかね。」
「切符とはなんでありますか。縄ならございます。」
「縄か、狐か猫の革ならまだましだったのにの。ちぇっ。」
「白無垢の女から頂いたのです。」
「不景気だからな、詮無いか。よかろう、持ってけ。」
「ありがとうございます。これで叱られずにすみます。」
「貴様、叱られるのが恐いのか、それでもおのこか、ちぇっ。」
「はい、叱られると飯が食えないのであります。」


 太一郎は縄を男に渡し、油が入った桶を頭にのせた。重いようで軽いようで、太一郎はなにやら不思議な感覚に襲われた。ふと、周りを見渡すと白無垢の女がこちらをじっと見つめていた。太一郎はお礼を言おうと思い、その女に近づいた。


「ありがとうございました。これで叱られずに。げふっ。」
「げふっ。柳には縄をしめておくことじゃな。ハトバス、げふっ。」
「なるほど、すっかりわかりました。あなたはからくりですね。」
「ぬふふ、ようわかりんしたな。見事、見事。げふっ。」
「なるほど、すっかりわかりました。あなたは狐ですね。」
「ぐふふ、それは見事、見事、げふっ。」
「早く帰らねば、客人が困っております。帰り路を教えて頂けますか。」
「おはぐろを曲がったところに関所があるぞえ。」
「なるほど、噛めばいいのですね、わかりました。げっふ。」
「からだに気をつけることじゃ。げふげふ。」
「お世話になりました。ありがとうございました。それでは。」
「くれぐれも柳には縄をしめておくことじゃな。ハトバス。」
「はい。わかりました。そう女将にも言っておきます。」


 太一郎は西洋風の看板の路を抜けて、おはぐろの辻社までようやくたどりついた。頭に油の入った桶を乗せているので、歩みは少しづつだった。


「ふう、ここまで来ればあとは一本道じゃ。」


 太一郎は袖にしのばせておいた空箱のマッチを取り出し、鶴をおはぐろ月に飛ばした。そうすべきだと、太一郎はなぜか思った。


「帰って女将さんにこの出来事を伝えなければ。縄をしめなければ。」


 太一郎の歩みは少しづつだった。太一郎の歩みは少しづつだった。