二夜

第二夜



 こんな夢を見た。
 その昔、途中峠の茅葺の茶屋に、みつ豆のおみつと呼ばれる美しい娘が居た。明朗快活な性格に下膨れした頬がことさら愛らしく、多くの人々から人気を得ていた。近江から京へ抜ける行商人にとって、途中越は過酷な道程であった。その為、山道の所々に茶屋が点在していた。山道に二十四五と思しき、行商人の彦九郎という男が居た。彦九郎は元来、東国の武家の出自であったが、いくつかの罪状のすえにお家から勘当され、わらじ売りまでへと身をやつしていた。止むをえぬ事情で関所を通る事が困難な行商人たちは、近江から京へと抜ける際、この峠を越えねばならなかった。彦九郎には贔屓にしている茶屋があった。延暦寺から丁度十里ほど歩いた所にある、名を「宇野茶屋」と呼んだ。彦九郎はこの茶屋のおみつという十五の娘を密かに慕っていた。山道には白川女、薬屋、駕籠屋、僧侶、果ては浪人や白首まで、様々な人々が行き交っていた。子刻を少し過ぎ、日が松の木や橡の木に隠れた刻限に、ようやく彦九郎は茶屋へと辿り着いた。夏場の途中越のせいで、竹の水筒は空になり、彦九郎の喉は渇ききっていた。彦九郎は三度笠を脱いで、腰の物を赤い縁台に置き、茶屋へと入った。


「いらっしゃい。あら、彦九郎はんや。お久しぶりやなぁ。息災そうでなによりやわぁ。」

「おみつさん、葛湯に生姜を少し混ぜてくだせい。あと、辛いのと甘いの適当に三つ。」

「はいよ。少し待っとってください。すぐにお持ちしますさかいに。」

「承知しました。ところでおみつさんに贈り物があるのです。先に受け取って頂けますか。」

「いややわぁ、彦九郎はん、贈り物やなんて。そないな物を毎度毎度頂くわけにはいきまへん。あきまへん。あきまへん。他のおなごにあげたらええのに。うちはこの縁日でおとうに買おてもろた紅白の風車と、「宇野茶屋」のみつ豆さえあればそれでええの。」

「そう申さずに、おみつさんにきっと似合うと思って、せっかく京の呉服屋で買ってきた黄八丈ですよ。そう高価な物でもありません。どうぞ受け取ってください。」

「そないな事言われたらうち困ってしまうやないの。ほな、あとで少し上った所に大きな松の木があるから、そこで待ち合わせしましょか。」

「結構です。それではここで少し憩を取らせていただきます。」


 一刻ほど、大きな松の木の下で彦九郎はおみつをじっと待った。いくら待ってもおみつがやってくる気配は彦九郎には感じられなかった。蝉の声が辺り一帯に響き、そぞろに風が松の木を揺らした。彦九郎は三度傘を深くかぶり、おもむろに腰の物を抜き、松の木を三度打ちつけた。乾いた音が山間に響き、瑞々しい若葉がはらりと数枚、彦九郎の足もとに落ちた。途中峠の大木はただただ、大きかった。まるで何事もなかったかのように、その大木は佇んでいた。彦九郎は再び京へと足を向けることにした。


 行商人にとって山越えとは過酷である。いかに鍛え抜かれた健脚とはいえ、重い荷を背負って、日に何里も歩かねばならない。京へと辿り着く前に、もうすでに日は暮れかけていた。仕方なしに、彦九郎は木賃宿に泊まることにした。闇夜の山越えほど危ういことはなかった。まず道に迷う上に、野武士や夜盗の徒に襲われる危険があるからだ。街道筋ではない為に、人は少なく宿は閑散としていた。


「御免、宿代はいくらかね。」

「わらじ売りの客人やな。今日はお客がおらん、百文でええどす。」

「左様か、では一間お借りする。」

「おおきに、店先で客とってもええさかい、勝手にしておくれやす。」


 狭い木賃宿の一間で、行灯の火が揺れていた。彦九郎はおみつの事を思い返していた。どうしておみつは松の木に来てくれなかったのであろうか。所詮、下賤の身では叶わぬ恋だと、彦九郎は思った。行灯の火を吹き消し、蚤や虱と共に彦九郎は畳に横になることにした。


「そこなお兄さん、風車は売っていますか。」


 彦九郎は聞いた声に驚いて飛び起きた。寝入っていたゆえに、確かな刻限が彦九郎には判らなかった。月の具合を見た所、丑三つ時であろうか。幻聴かと彦九郎は思ったが、表に飛び出すと暗闇の中、おみつが居た。


「おみつさん、こんな夜分にどうしてここに。」

「堪忍やで彦九郎はん、おっ父に止められて行けへんかってん。」

「左様でしたか、それよりこのような時刻に家を抜け出ては、あとでお叱りを受けるのではありませぬか。」

「かまやしまへん、そやないと会われへんから。」

「風車は売っていませんが、よろしいのですか。」

「わらじなんて野暮なもん売らんで、風車売ったらええのんに。」

「風車では活計がまわりませんゆえ。」

「ほなら、みつ豆売ったらええやんか。」


 おみつの自由闊達な物言いに、彦九郎は思わず破顔しそうになった。まるで夢を見ているような心持ちに彦九郎はなった。


「おみつさん、手前と一緒になってはくれませぬか。」

「うちも彦九郎さんのことは好きやで。でも、それはおっ父が決して許してくれまへん。」

「それを承知の上で申し上げております。」

「それ、ほんまでっか。」


 静寂と月明かりがするりと二人の間に降りた。おみつは強い眼差しで彦九郎をじっと見つめていた。


「お客さんから浄瑠璃のお話で聞いたことあるねん。」

「手前は心中などするつもりはありませんよ。若しおみつさんが一緒になってくれるのであれば、父上に懇願して家に戻ります。」

「東国やゆうてた。それって、遠いんやろ。うち、おっ父に心配はかけたくないねん。」

「おみつさんのお父上を説得すべく、明日にでも茶屋に出向こうと思います。」

「あきまへん、うちのおっ父は頑固者やさかい。まるで夢みたいなお話やな。うちも彦九郎さんと一緒に居たいんやで。でも、あきまへん。」


 静寂と月明かりがするりと二人の間に降りた。彦九郎はおみつをじっと見つめていた。彦九郎は矢も盾もたまらず、おみつを抱きとめた。一体、どれほど刻が経ったであろうか。遠く延暦寺の鐘の音が辺りに響き渡った。


 目を覚ますと彦九郎は木賃宿の畳の上に寝転がっていた。彦九郎は夢か、と思いひどく落胆した。旅の仕度を済ませ、宿を出て彦九郎は山道をぬい、京へと向かった。彦九郎の腰帯には風車が刺さっていた。