地獄篇

地獄篇




早馬を狩る春の矢は、河上を滑っては跳ね、滑っては跳ねを繰り返す。鳶のように、伝馬のようにいそいそと駆け廻る。
「旦那、ここには地獄なんてありゃしませんよ」
そう女は云うと、細長い白い腕で煙管を小袖から取り出し、欄干に持たれながら火を入れた。旦那と呼ばれた男は、夢見小路通りによく出入りしている助六という者であった。なんでも名代の呉服問屋の三男らしく、まだ二十を過ぎていないのに、歌を詠んだり、鉄火場に顔を出したり、矢場に顔を出したり、色街に足しげく通ったりと、大凡この世に在るだろうと思われる、遊びという遊びをすでに心得ていた。その放蕩ぶりを市井の若衆は口々に小家斉公と揶揄するほどであった。
「こうして染井吉野を背景に、あんたを眺められるんだから、手前はもう死んだっていいと思ってるんだ。もうあとはきっと地獄を見るだけだろうしね」
「なにを仰っておられるんですか、旦那。名代にお生まれになって、折角なに不自由なく暮らせておいでなのに」
傍の火鉢にカンッと煙管の灰を落として、女は助六の妄言を断ち切った。遊女たちはなにも好んでこの浮世に身を窶しているのではないのである。
太夫、野暮な事を云うもんじゃあないぜ。手前とあんたは浮世の境目を生きている、同じ生き物さね。男か女かの違いだけさ」
「旦那に云われるとどうにも困っちまうね。ま、旦那ほどの器量があればどこぞで客でも取れそうなもんさ。そうさね、一度入れ替わってご覧よ。そうすればきっとあたいらの心持もわかるってなもんさね」
女が冗談か本気か判別のつかない声色で云うものだから、助六はついに困ってしまった。でも、それも一興かもしれない、という偲いも湧き出してしまい、思わず吹き出してしまった。
「あんたも酔狂な事を考え付くもんだ。大凡遊びという遊びは心得て来たが、そんな遊びは露も考えた事がなかった。今宵にでもためしてみるかい」
「旦那、冗談だからやめとくれよ、そっちに行かれちゃあたいが立ち行かなくなっちまうよ、後生だからやめとくれよ」
女は媚びるような声色で、半身になって助六に寄りかかって、路頭に迷った仔犬のように懇願した。京友禅の艶々した生地の上に、欄干から入ってくる河上の光の照り返しが波み波みと写って、天女の羽衣を助六に思い起こさせた。
「重畳、あんた本当は浮世絵から飛び出してきたんだろう。そろそろ本当の事を云ったらどうだい。まるで菊川だ」
助六は冗談めかして太夫をからかいながら、家路につく準備をしていた。錦鯉の紋様の入った黒い着流しにすっと袖を通し、まるで寺子屋の帰りのような面持ちをしながら煙草を一服つけた。その切れ長の冷えた目の奥では、先の太夫の言葉が鈍い紅玉へと変化して、珠のように怪しい光を放っていた。
太夫、ちょいと筆と硯を持ってきてくんな」
女はいつもの手慣れた手つきで箪笥から筆と硯を取り出して、助六の前に差し出した。すこし頬を紅らめているようであった。助六は夜明けの鴉と刻を同じくして目醒め、短歌をちょいと考えてはしたためて、遊女に渡していた。それが助六にとっての粋であった。



菊川に
我が身をなげて
行く者よ
なにを哭く哭く
浮舟の鯉



助六には文才があったのか、なかったのはわからないが、それなりの心持になって鼻を鳴らしながらさらさらと書いて、折りたたんでくれぐれも後で見るようにと云い、太夫に渡した。
「あたいはこれをどんな歌舞伎の演目を観るよりも楽しみにしてるんだよ、旦那。歌の事はよくわからないけど、旦那の歌は好きだよ」
助六は得意になりながら、巾着を引っかけて、からからと夢見小路通りを抜けて三条瓦町まで歩いた。